フランス料理に携わり40年以上というキャリアのうち、約9年間をフランスで過ごした経験の持ち主である「アラジン」川﨑誠也さん。日本から海外へ渡った料理人は数多なれど、70年代から80年代をフランスで過ごし、その後日本で独立して唯一無二のレストランを作り上げた人物は珍しい。そんな川﨑さんに、長い料理人としての人生を生き抜くヒントをいただいた。
川﨑さんがフランスの土を踏んだのは1979年のこと。
「フランスの名の知れたレストランなら、どこにでも必ずひとりは日本人が働いていましたよ。でも外国人は日本人くらいしかいなかった」当時の日本はバブルが始まる直前。円安ドル高で自動車や電化製品などの輸出が増加していた頃だ。「どこへ行ってもメイド・イン・ジャパンの製品は評価されていたので興味を持ってもらえました。SONYやPanasonicはもちろんバイク好きも多くてYAMAHAやHONDAも知っていた。でも、みんな僕を見ているようでいて、実際は僕の後ろにある日本という国を見ていることも知りました」
メニューの中の料理名とは作った料理を言葉で表すこと
「少しずつ仕事や言葉にもなれ、フランス人の友達も増え、フランスでの生活も仕事もだんだんと楽しくなっていきました。ホームシックとは無縁でしたね。ましてや憧れのフランスでしたから」そんな川﨑さんがフランスで最も驚いたのは、料理名ありきではなく、シェフたちが作った料理に対して自ら名前をつけている姿。「当時のフランスはオーナーシェフの店がほとんど。彼らが料理名を自分で決めているのを見て、料理って自分の表現なんだと知りました。今では当たり前のことですが、日本にいた頃はその逆でね。まず料理名があり、その名前の通りに使う素材、調理法、ソース、付け合わせが決まっていると思っていたんです」
バブル崩壊という出来事が「アラジン」出店につながった
30歳を過ぎた頃に、川﨑さんはフランスでの転機を迎えた。「今はいいけれど、じゃあ将来はどうなんだと考えるようになって。フランスでは働くことができても、自分の店を出すとなると話は別。今後について考えようと、日本へ一時帰国することにしました」半年から1年くらいかけて日本で働いてみながら、今後のことを決めようと思っていたという。
「一時帰国のつもりだったので、パリのアパートはそのままの状態。そして縁あって「オー・シザーブル」の料理長をすることになりました。就任した以上、すぐ辞めるわけにはいきません。そうしている間に結婚して子供もでき、フランスへ戻ることを半ば諦めるようになっていました」そんななかバブルが崩壊し、それが店を出すチャンスへとつながった。「バブルの頃は、小さな店でも保証金を含めて4〜5000万の開店費用が必要と言われていました。それがバブル崩壊後は保証金がぐんと下がり、内装も工夫すればかなりコストを抑えて店が出せるようになったんです」。そうして川﨑さんは38歳で「アラジン」のオーナーシェフとなった。
3店舗目はフランスに出店を考えたこともあった
「実は『アラジン』と『メゾン・カシュカシュ』の後に、もう1店舗をフランスに出そうと考えたことがあるんですよ。僕がいた頃とは状況が随分変わってきているし、都内にもう1店舗出すよりフランスにお店があったほうが、僕もスタッフ達の人生も、もっと豊かになると考えたんです」ただし、それにはどうしても譲れない条件があった。「古き良き時代のクラッシックな内装。店そのものが骨董品のような、高級レストランではなくビストロのようなお店にしたいと思っていました。それがなぜ実現しなかったのかと言うと、一つはすごく気に入った物件が見つからなかったこと。そしてもう一つは、ユーロがだんだん高くなっていたこと。ユーロの高騰が収まるのを待とうと様子をうかがっていたら、こちらの状況も変わっていき、時期をのがしてしまいました」
つねに何かを選択して生きる
そこに「もしも」はない
「どの国で、どんな場所で、どんな形で、どんな店にするか。今はいろんな選択肢があるから、選ぶのが難しいかもしれない。でも、何にでもチャレンジしやすい環境ですよ。自分の人生だから、自分で作っていくしかない。生きることには、つねに選択が伴うものだけれど『もしあの時こうしておけば』というのはない。選択しなかった時点で消えているんです。一生懸命やれば残せるものは絶対に違うはずだから、何を選んでも後悔する必要はないですよ」
田中英代=取材、文 小寺 恵=撮影
本記事は雑誌料理王国2018年6月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2018年6月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。