師匠と弟子の物語 (12) 麻布長江出身 田村亮介さん(慈華)【前編】

「師匠と弟子の物語」は今回から「麻布長江」の長坂松夫氏のもとで修業し、今は自店構える3名の料理人にインタビュー。まずは東京・青山「慈華」の主人、田村亮介氏の話を、前編・後編の2回にて紹介。今回は、田村氏が麻布長江に入り、台湾修業に行くまでの5年間の話をお届けする。

名店にはさまざまな特徴があるが、「優秀な弟子を輩出している」もその一つ。この連載では「ある店」から卒業後に活躍しているシェフたちに話を聞く。今回から「麻布長江」の長坂松夫氏のもとで修業し、今は自店構える3名の料理人にインタビュー。まずは東京・青山「慈華(いつか)」の主人、田村亮介氏の話を、前編・後編の2回にて紹介。初回の今回は、田村氏が麻布長江に入り、台湾修業に行くまでの5年間の話をお届けする。

〜麻布長江(あざぶちょうこう)について〜
香川・高松で四川料理店を2店営んでいた長坂松夫氏が、1997年東京・西麻布にオープンした店。伝統的な四川料理がベースにありながらもクリエイティブな料理で時代を拓き、人気を獲得。テレビや雑誌などのメディアでも活躍する。なお店は2009年に田村氏が引き継いだ。長坂氏は現在、高松で「長江SORAE」を営む。

まずは師匠の完全コピー

田村さんはどのような経緯で麻布長江で働くようになったのでしょう。

中国料理の修業をはじめてから3年半が経ち、2店目の店で働いていた頃のある時、高校時代からの親友の家に遊びにいったんです。そうしたら、ライターをしている彼のお姉さんがたまたま家にいて、「麻布長江の長坂松夫さんに取材した」とのこと。ちょうど、長坂さんがテレビの「料理の鉄人」に出て話題になっていた時です。それで「麻布長江でスタッフを探しているよ」と教えてくれ、「働くかどうかは別として、食事に行こう」となりました。1998年の秋頃のことです。

僕は当時、まだ次の店に移ろうとは考えていなかったのですが、食後、長坂さんと話しているうち、いつの間にか長坂さんのペースで会話が進んで働くことに(笑)。追って面接に行く段取りをつけました。

前の店を辞めるのに2〜3ヶ月かかり、店に入ったのは1999年の1月。23歳の誕生日を迎える直前でした。

厳しさで精神的に追い詰められ……

麻布長江に入って、特に印象的だったことは何ですか。

入って、というか、まずは入る前、面接の時にガツンとやられました。面接で「塩、醤油、砂糖の作り方を知っているか? 豆板醤は? 牛にヒレは何本ある?」などと聞かれたのです。

しかし自分はそれまで、そこまで真剣に料理に取り組んでいたわけではなかった。当然、答えられない。「そんなもの、料理人として普段使っているのだから勉強をしなくてはダメだ!」、そして「店に入る前にしっかり勉強するように」と強く言われました。

それが本当に衝撃だったんです。「どうして自分は今まで、そんなことも知らなかったんだろう」という情けなさと、長坂さんの考えているレベルの圧倒的な高さに対する驚きとで。面接帰りの足で速攻、調味料の本を買って帰りました。

「運気の上がる前菜盛り合わせ」。コースの1品目に提供。縁起を担ぎ、昇龍に見立てた尾頭つきのぼたん海老は欠かさない。そのほか、さまざまな野菜、魚介、肉などで作る、色も味も食感も多彩な料理を盛り合わせる。季節感も豊かな、食事の冒頭を盛り上げる一皿。
「運気の上がる前菜盛り合わせ」。コースの1品目に提供。縁起を担ぎ、昇龍に見立てた尾頭つきのぼたん海老は欠かさない。そのほか、色も味も食感も多彩な料理を盛り合わせる。季節感も豊かな、食事の冒頭を盛り上げる一皿。

では、入る前にある程度、厳しさとレベルの高さの覚悟はできていた。

いや、それが……入ったら想像以上でしたね(笑)。やることは細かくて多く、求められる完成度が今までとは桁違いなのです。野菜を切るにもミリ単位の正確さ、四角といったら完璧な四角。とにかくクオリティとスピードが必要。そして、ダメ出し以前に、いいと言われることがない。ものすごいプレッシャーです。

実はそんな中、一度、いわゆる「バックレ」をしたことがあります(笑)。入って10ヶ月たたない頃でしょうか。その日の朝、なんとか店の最寄りの六本木駅まで行ったのですが、店に着いて着替えている時に吐き気が止まらなくなったんです。それで、当時長坂さんの自宅が近かったので、「辞めます、すみません」と書いた手紙を玄関ドアの下にピッと入れて、逃亡。

気がついたら海をぼんやり眺めていました(笑)。「トラックの運転手になろうかな」なんて思ったりしながら。

その日、昼間は誰とも話したくなくて携帯の電源を切っていたのですが、さすがに夜になって入れると、長坂さんや、麻布長江に入るきっかけを作ってくれた親友から電話が入っていました。それで、「友達に心配かけるなんてダメだ」と思いなおし、翌日には店に戻ることに。皆に謝って、復帰したという次第です。

田村さんは麻布長江に入ってから約5年後の2005年に、台湾に渡って修業します。それまで、どのようなポジションで、どのように働きましたか。

最初はもちろん、一番下です。掃除、仕込みなど何でも。あと、営業中はサービスにも出ていました。長江では、新入りはまずサービスをやるのが通例なのです。その後はデザートも担当し、板場、二番鍋というように徐々にポジションがアップ。台湾に行く前には副料理長を務めていました。

ちなみに、麻布長江では次のポジションの仕事内容や技術を教えてくれるわけではありません。自分の仕事をやりながら、常に長坂さんや先輩の仕事を目の端で見て完コピできるようにしておけ、と言われていました。たとえば鍋だったら、調味料を入れる順はもちろん、腕の角度、速度も真似するんです。

それである時突然、「今から鍋振れるか?」と指名される。これはチャンスでもありますが、もしも完コピできていなかったらしばらく声をかけてもらえない。いつも必死で、集中力が鍛えられました。

「極細切り絹豆腐 徳上スープ」。一見細い麺のように見えるのは、糸ほどの細さに切った豆腐。これを、中国料理の頂点の一つと呼べる、金華ハムや干貝柱でとった旨み豊かなスープに入れた伝統料理。豆腐はスープの中でたゆたい、口に含めばそのふくよかなコクがやさしく主張する。スープの技術、包丁の技術の極み。
「極細切り絹豆腐 徳上スープ」。一見細い麺のように見えるのは、糸ほどの細さに切った豆腐。これを、中国料理の頂点の一つと呼べる、金華ハムや干貝柱でとった旨み豊かなスープに入れた伝統料理。豆腐はスープの中でたゆたい、口に含めばそのふくよかなコクがやさしく主張する。スープの技術、包丁の技術の極み。

中国語の勉強、四川旅行、台湾修業

田村さんは台湾に行くまでの5年間、ずっと麻布のお店にいたのですか?

いえ、2回ほど高松の店にも行きました。麻布と行ったり来たりです。

仕事は高松に行っても、もちろん忙しい。高松には市内にある100席規模の本店と、郊外のカジュアルな姉妹店がありましたが、高松へは最初、本店の二番鍋として行きました。後に、カジュアル店も担当。仕事の幅を広げることができました。

また、並行して、中国語の勉強にも力を入れるようになりました。休日に県民ホールの中の会議室を借りて、中国語の上手な先輩から紹介していただいた中国人の方に教えていただくのです。そして普段は、仕事の後に予習と復習。

なので、付き合いは悪かったですよ。スタッフの仲間から「遊びに行こう」「飲みに行こう」と誘われても、「俺、高松に遊びに来ているわけじゃないから。考えることがあるし」と言って断っていた。そうしたら「出た! 田村さん、またそれ(笑)」なんて言われていましたね(笑)。

でも、例の「バックレ」の後に、自分の中でスイッチが入ったんです。とにかく料理を極めたい。誰にも負けないくらい本物の中国料理を作りたい。そんな目標に向かい、全力でした。

そうした流れの中で、台湾へ修業に行くことになるんですね。

はい。本当は大陸に行きたかったんです。でも今と違い、当時は大陸で働く伝手がなく、ネットも発達していなかったので、縁のできた台湾の四川料理店に行くことになりました。

なお長坂さんは入社したスタッフ全員に「四川料理の古典を勉強しなさい」「中国料理は中国の文化の一部なので、中国の文化全体、歴史、風土を知らなくてはいけない」と普段から厳しく指導していました。それで僕らも本で勉強するうちに、どんどん古典料理や中国文化にハマっていったわけです。

台湾に行く前、長江で働いていた5年間の中で、加藤さん(加藤堅太郎氏。岡山「はすのみ」オーナーシェフ)や川田(川田智也氏。東京「茶禅華」オーナーシェフ)など同年代の仲間と夏休みを利用して、四川に食べ歩きと食材買い出しの旅行に何度か行っていましたね。でも、夏休みといっても2泊3日だったので、超弾丸です(笑)。当時は直行便もないから、現地で過ごせるのは24時間とか30時間。

それでも、吸収力はすごかった。なにしろハングリーで、「四川に来られた!」と、みんな、行くたびに喜びを爆発させていましたから。

そんな体験があったので、徐々に「もっと中国で本格的に学ぶ時間が欲しい」「文化を知るために、現地で生活をしたい」という思いが強まった。それで一度麻布長江を辞め、あてはなかったのですが、現地に行く道を探ろうと思ったのです。

実際は長坂さんに引き留められて、休職という形で半年間台湾に行くことに。それでも自分にとってかけがえのない体験になりました。

※後編はこちら。田村氏の台湾での気づき、帰国後の料理長経験と独立、自分の料理を確立するまでについて、長坂氏との関わりとともに伝える。

田村亮介 たむらりょうすけ
1977年生東京都生まれ。調理師専門学校卒業後、中華街と都内の店を経て「麻布長江」に入る。麻布、高松の店で働き、2005年に休職して台湾の四川料理店、精進料理店にて修業。帰国後、麻布長江 香福筵の料理長に就任。2009年に店を引き継ぎ、オーナーシェフとなる。2019年4月、建物老朽化のために同店を閉め、南青山に「慈華」をオープン。『ミシュランガイド東京2021』以降、一つ星を維持する。

慈華
東京都港区南青山2-14-15 五十嵐ビル2階
TEL 03-3796-7835
https://www.itsuka8.com

料理写真:慈華提供
文・人物写真:柴田 泉
神奈川県出身。食の専門出版社「柴田書店」にて、プロの料理人向けの専門誌『月刊専門料理』編集長を務める。独立後は食やレストランのジャンルを中心とするフリーライター・編集者として活動。

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