名店にはさまざまな特徴があるが、「優秀な弟子を輩出している」もその一つ。この連載では「ある店」から卒業後に活躍しているシェフたちに話を聞く。今回は、「麻布長江」の長坂松夫氏のもとで修業し、今は自店構える3名の料理人にインタビューするシリーズの2回目。前編・後編にて紹介している東京・青山「慈華(いつか)」の主人、田村亮介氏の後編をお伝えする。田村氏が台湾で学び、長坂氏の元で料理長を務め、独立し、自分の料理を確立する道のりの話だ。(前編はこちら)
〜麻布長江(あざぶちょうこう)について〜
香川・高松で四川料理店を2店営んでいた長坂松夫氏が、1997年東京・西麻布にオープンした店。伝統的な四川料理がベースにありながらもクリエイティブな料理で時代を拓き、テレビや雑誌などのメディアで活躍する。なお店は2009年に田村氏が引き継いだ。長坂氏は現在、高松で「長江SORAE」を営む。
※前編……20代前半で麻布長江に入った田村氏は厳しい修業の中で徐々にステップアップ。同時に、中国古典料理や中国語の勉強、本場四川への旅行を重ね、より深く学ぶために中国で生活・修業したいと思うように。その思いを叶えるべく、麻布長江で働き始めてから5年後、半年間休職して台湾で修業する伝手を獲得。現地に渡った。
——台湾ではどのような経験をしましたか。
現地の生活にどっぷり浸かることができたのは、貴重な体験でした。
そして一番大きかったのは、一緒に働いていた現地の料理人たちから「あなたは日本人なのに、なぜ中国料理をやっているの?」と聞かれたこと。その時、僕は明確に答えられなかった。「自分は日本人なんだ」と改めて気づき、そこから「このままでいいのか」というモヤモヤがはじまったのです。
「中国人料理人に負けたくない」「むしろ中国人になりたい」、そして「現地でも本物だと通用する中国料理を作りたい」というそれまでの目標、これはいいのか?と。
ただ、「なぜ日本人が中国料理を」という問いが自分の中で引っかかったのは、やはり長坂さんの教えが身についていたからなんですね。
長坂さんはいつも、「食材と会話しろ。なぜこれを使うのか、どんな意味があるのか深く考えろ」と言っていました。そして、やはり日本では、基本的に日本の食材を使う。じゃあ「日本人の作る、日本の食材を使った中国料理というのは何なんだ」という疑問が、台湾に行く前から頭の片隅に生まれていたわけです。
その頭の片隅にあった疑問が、台湾で表に出た。長坂さんの教えがなければ、現地の厨房の仲間からの問いを素通りしていたと思います。
「なぜ日本人が中国料理を作るのか」という問いに反応することが今の僕の料理観、つまり「中国料理の歴史や文化、技術と、日本の素材、感性の融合」につながりました。なので、やはり長坂さんの存在は僕にとって本当に偉大なのです。
——帰国後、田村さんは店名を新たにした「麻布長江 香福筵(こうふくえん)」の料理長を3年ほど務めます。この時は、長坂さんとの関係性はそれまでとは異なっていたと思いますが、どのような日々を送っていましたか。
料理長ではありますが、やはり長坂さんの店なので、彼の料理を完コピすることに変わりはありません。その過程で料理に関する多様な学びがあったのは当然ですが、それ以上に長坂さんの料理観を習得できたのが大きかったです。
その料理観とは、「美味しいのはあたりまえ。お客さまには感動していただかなくてはいけない」ということ。そして感動のストライクゾーンは、直球ど真ん中の本当に狭いポイント。そこからボール半個でも外れたらダメ。ここの味を毎回狙え、と言っていました。
そして今日作ったものは昨日より絶対に美味しくなければいけないし、毎回毎回集中しなくてはいけないというのも長坂さんの教え。それを、長坂さんを完コピしながら実現するのです。
——2009年に田村さんは店を買い取り、オーナーシェフとなります。となると、やはり料理に自分の色を出すようになったと思いますが……。
いや、そんな簡単にはいかないですよ(笑)。何しろずっと長坂さんの完コピでやってきたので、いきなり自分の料理と言われても作れません。
それに、準備期間なく引き継いだので、ある日突然オーナーシェフになったようなもの。スタッフも引き続き6〜7人いて、彼らの生活もある。とにかく経営で精一杯でした。1年間ほどは無理に料理を変えようとは思えませんでしたね。
なお僕は麻布長江 香福筵のオーナーシェフをやっていた2009〜19年の10年間の料理を、自分の中では前期・中期・後期に分けて考えています。前期の3年強は長坂さんの残像を追っている時期。中期は長坂さんからの脱却を模索する時期。そして2015、16年くらい以降が後期で、ようやく吹っ切れて自分の料理を出せるようになった時期です。
——料理はどのように変わっていきましたか。
「素材の味を超えないように」と心がけるようになりました。これは長坂さんと懇意にさせていただいていた、「分とく山」の野﨑洋光さんの教え。中国料理は、もちろん和食に比べたら味付けが強いわけですが、それをいかに「素材ありき」の料理にしようかと模索するようになったのです。
また、素材ありきを推し進めようと思った背景には、ワイン学校に通ったことも影響しています。
オーナーシェフになった時から、スタッフみんなでワイン学校に通いはじめました。経営者になって、売上のことを考えるとワインは大きな武器。ですが自分たちにはワインの知識がなく、きちんと売れない。だったら学校に通おう、となったのです。
そうなると当然、ワインと料理の関係性を考えるようになる。ビールを飲んで、サワーを飲んで……という中国料理でありがちだった食事と違い、ワインと合わせるとなると、料理とドリンクの調和が格段に大事になります。その点、今まで作っていた料理はワインとかけ離れていたのです。
たとえば中国料理で多い、片栗粉による「とろみ」のある料理はワインと相性が悪い。そこで、まったくとろみをつけない料理を積極的に考えるようになりました。こうした料理は、先ほどお話しした前期から考えており、中期には常連のお客さまにお出しするように。さらにコースで皆さまに本格的に出せるようになったのが後期です。怖かったですけど、お客さまの反応もよく、手応えを感じることができました。
そんな経緯で、時間がかかりましたが、長坂さんに学んだことがベースにありつつも自分の料理を作れるようになしました。さらに自分の料理、自分の考えを深め、整理し、改めて強く打ち出してオープンしたのが今の「慈華」です。
——では、最後の質問になります。長坂さんのもとで過ごした日々は、田村さんにとってどのような時間でしたか?
そうですね……。「考える」ということを教えていただきました。
そもそも僕はチャランポランな人間なので(笑)、長坂さんに出会う前は何かをじっくりと考えるということがなかったのです。今も、まだまだだとは思いますが、長坂さんのおかげで何事にも「なぜ」と思い、深く考える習慣が身につきました。
「なぜ」を考えはじめると、いろいろなことに一気に時間がかかるようになるんですよね(笑)。でもそれで得られるもの、深まるものが確実にあります。普段から「なぜ」の疑問を持つと持たないとでは、人としても能力としても雲泥の差が生まれるでしょう。僕もいつも、スタッフにそう話しています。
この考え方は、僕の基礎の基礎になっています。一生ものの宝をいただきました。それが、長坂さんと過ごした日々で得たこと、感謝してもしきれないと思っていることです。
田村亮介 たむらりょうすけ
1977年生東京都生まれ。調理師専門学校卒業後、中華街と都内の店を経て「麻布長江」に入る。麻布、高松の店で働き、2005年に休職して台湾の四川料理店、精進料理店にて修業。帰国後、麻布長江 香福筵の料理長に就任。2009年に店を引き継ぎ、オーナーシェフとなる。2019年4月、建物老朽化のために同店を閉め、南青山に「慈華」をオープン。『ミシュランガイド東京2021』以降、一つ星を維持する。
慈華
東京都港区南青山2-14-15 五十嵐ビル2階
TEL 03-3796-7835
https://www.itsuka8.com
写真:慈華提供
文:柴田 泉
神奈川県出身。食の専門出版社「柴田書店」にて、プロの料理人向けの専門誌『月刊専門料理』編集長を務める。独立後は食やレストランのジャンルを中心とするフリーライター・編集者として活動。