名店にはさまざまな特徴があるが、「優秀な弟子を輩出している」もその一つ。この連載では「ある店」から卒業後に活躍しているシェフたちに話を聞く。今回は、「麻布長江」の長坂松夫氏のもとで修業し、今は自店構える3名の料理人にインタビューするシリーズの2人目として、岡山「はすのみ」の加藤堅太郎氏が登場。21歳に入店、以降独立開業するまでの14年間を長坂氏のもとで過ごし、うち7年間は高松の店の料理長を任された経歴の持ち主だ。ここでは加藤氏のインタビューの前編として、料理修業をはじめてから高松で料理長になるまでの話をお届けする。
〜麻布長江(あざぶちょうこう)について〜
香川・高松で長年「中国菜館 長江」と「シーサイドチャイナ長江」を営んでいた長坂松夫氏が、1997年東京・西麻布にオープンした店。伝統的な四川料理がベースにありながらもクリエイティブな料理で時代を拓くとともに、テレビや雑誌などのメディアでも活躍する。長坂氏は2009年に店を弟子の田村亮介氏に継がせ、2010年より高松で「長江SORAE」を営んでいる。
——加藤さんはどのような経緯で麻布長江に入ったのですか?
僕はもともと高校生の時に、地元岡山の中国料理店でアルバイトをしていて、卒業とともにそこに就職しました。これが中国料理の道に入ったはじまりです。そしてその店で3年ほど働き、板場や鍋など一通りのポジションを経験した頃、外の世界を見てみたいと思うようになったのです。
また、修業をはじめてからのその3年間でいろいろな中国料理店を食べ歩いていたのですが、高松にあった長坂さんのお店「中国菜館 長江」にも訪問していました。ここで食事をした時に「すごい仕事をする店だな!」と感動し、以来、長江を意識するようになっていました。
そんな中、長坂さんが東京に進出するとの情報をキャッチ。「ぜひ参加させてください!」と電話し、就職させていただいたのが21歳の時です。ただし最初から東京ではなく、就職後の半年間は高松の長江で働くことに。高松の料理長の下で修業をはじめました。
で、その半年間はコテンパにやられた記憶しかないですね(笑)。まさにカルチャーショックです。
——カルチャーショックとは、どういうことでしょうか?
一言で言うと、自分がやっていることが全然通用しない。今までやっていたことが全て崩れたというか……。
それまでいたお店は大衆的で大箱。どんどんいらっしゃるお客さまにスピーディーに料理を提供する中で、自分は多少は手も早くなったし、鍋もきちんと振れるようになった感覚でいました。でも仕事の質という意味で長江の常識には全然及んでいない。
だから、まずは全否定されるところからスタート。切り方、さらに言えば立ち方、包丁の握り方までなおされました。自信が粉々に砕けましたね。
僕は、なにせ粗かったのです。高松での半年間から引き続き、東京に移ってからもそこを徹底的になおすよう必死で訓練しました。
——東京で長坂さんと仕事をするようになって、印象的だったことは何でしょう?
長坂さんは、とにかく料理を作るのが速い! しかも完璧! それこそ歌を歌いながら鍋を振っているのに(笑)「こんなに素晴らしい料理が作れるんだ!」とびっくり。それがまず、衝撃でした。
あと、その頃のお店の空気も好きでした。オープンして半年ですから、まだお店が軌道に乗る前です。そんな中、長坂さんや料理長をはじめとするキッチンスタッフ、ホールのマネージャーもみんな前を向いていろいろ勉強したり頑張ったり……そういう雰囲気がすごく好きでしたね。
高松での半年間は精神的にキツく、メンタルがやられそうになっていたので(笑)、東京では労働的にはハードでしたがお店のリズムや空気感に刺激を受けたのを覚えています。
——では東京では心地よく仕事ができたのですね。
いや、そんなことはないです(笑)! 空気感は好きでしたが、その一方でプレッシャーをかけられ、追い込まれるという状況もあったので……。実は毎日「辞めてやる」と思いながら通っていた時期もありました(笑)。
僕にとって一番キツかったのは、失敗したら「なぜ失敗したの?」「じゃあ、なんでそうしたの?」という具合に、「なんで」の無限ループで追い詰められること。その、「なぜ」から逃げられないのが辛かったですね。
また、長坂さんは僕たちが普段使っている調味料や素材についても「材料や製法から学びなさい」と常に言っていました。だから厨房で不意に「お前、醤油ってどうやってできているの?」などと聞かれるんです。そうしたら僕は、知っていても「え、え、はい、あ、あ……」となってしまうタイプ(笑)。それもキツかったです(笑)。
あと、少し話が逸れますが、長坂さんは「自分は、君たちに種を蒔くだけ。その種にきちんと水をやり、肥料をあげ、耕して育てるのは君たち自身だ」といつも言っていました。「僕はきっかけをあげるけど周りを見てごらん? 伸びている子、伸びていない子、成長が遅いけど確実に伸びている子、ビューンと行ったけれどそこで止まっている子……いろいろな子がいるのはなぜだか考えてみなさい」と。
これはまったくその通りで、長坂さんがきっかけをくれたら、その先、つまり日々の勉強や鍛錬は当然自分たちでやらなきゃいけない。
なので、とにかく自分の頭で考え、勉強し、行動することが求められる環境でした。非常に貴重な教えをいただいたと思っています。
——加藤さんは21歳で長江に入り、28歳で高松の店の料理長に就きました。どのような経緯で料理長になったのでしょう。
料理長になるまでの7年間で麻布と高松を行き来しながら徐々にステップアップし、2回目に高松に行った時には副料理長として赴任。のちに、そのまま料理長になりました。前の料理長が辞めるタイミングで、「堅太郎、おまえやる気ある? 料理長を任せることはできる?」と長坂さんに聞かれたんですね。それで「やりたいです!」と即答。
今思うと僕は料理長の厳しさを充分にはわかっていませんでした。長坂さんは東京の店にいるので、高松の店は本当に、全責任を料理長が負うことになる。技術的にも管理能力的にもまだ未熟でしたが、それでも長坂さんは僕を指名してくれた。長坂さんにとって、結果がどう出るかわからない「賭け」だったと思います。
——28歳で料理長というのは、若いです。
はい。高松の長江はその当時で20年近くの歴史があり、地元に大事にされてきた店。そうした存在感のある店なので、関係していた人々から「28歳の若造に任せて大丈夫なのか?」「加藤にやらせたら潰れるんじゃないか?」なんて声もあり、僕の耳にも入ってきていました。当然、長坂さんの耳にも入っていたはずです。
僕はそうした声を聞いた時、本当に、心の底から悔しかった。だからこそ「絶対にやってやる!」とも思っていました。そんな中、長坂さんが僕に賭けてくれた。具体的なサポートというより、任せてくれたこと自体が僕にとっての支えになったのです。
——最初は周りからのキツい声があったけれど、加藤さんはその後7年間料理長をなさったので、実際にはお店を軌道にのせることができたのですよね。
おかげさまで、そうですね。でも最初の1年間ほどは相変わらず「加藤で大丈夫か?」と言われ続けていました。
その状況にどうやって対処したかというと、とにかく任せてくれた長坂さんの仕事を実践することに全力を傾けました。コピーです。「長坂さんならこの状況でどのように考え、どういう答えを出すだろうか」「この場合どういうメニューにするか」ということを絶えず考えて模倣。毎月のメニューも長坂さんにファックスし、「これでどうでしょう?」と確認をとりながら進めていました。
そうして1年くらいした頃、長坂さんから「堅太郎、もうメニュー送ってこなくていいよ」との声が。その時はもう、最高に嬉しかったですね。認めてくれたのかな、と。そこから長坂さんの僕への接し方も変わりましたし、周りで僕の陰口を言っていた人たちもガラリと変わりました(笑)。
なおその時の高松の長江のスタッフは、全員僕より年下。若いチームで頑張っていたし、みんな本当によくやってくれたと思います。
※後編はこちら。7年間料理長を務め、独立開業し今に至るまでについて、長坂氏との関わりとともに伝える。
加藤堅太郎 かとうけんたろう
1974年岡山県生まれ。高校卒業後に地元の中国料理店で働きはじめ、21歳の時に高松の長江に入る。半年後に東京・麻布に異動。以降、高松と東京で経験を重ね、28歳で高松の長江の料理長となる。7年間同職を務め、36歳に岡山にて「はすのみ」を独立開業。地元の生産者とのネットワークを築き、岡山を筆頭に全国の日本ワイン、日本酒の生産者ともつながりを作る。「ミシュランガイド岡山2021」にて一つ星を獲得。
はすのみ
岡山県岡山市北区平和町1-11
TEL 086-238-8403
https://ya1s700.gorp.jp
写真:はすのみ提供
文:柴田 泉
神奈川県出身。食の専門出版社「柴田書店」にて、プロの料理人向けの専門誌『月刊専門料理』編集長を務める。独立後は食やレストランのジャンルを中心とするフリーライター・編集者として活動。