先人が残した価値に新たな息吹を吹き込み、歴史を重ねていく古民家レストラン。施工業者の選定が重要になるほか、前所有者への配慮や取り決めが必要など、古民家ならではのさまざまな課題も多いと聞くが、実際はどうなのだろう。
鎌倉駅から徒歩15分。駅前の繁華街を抜け、住宅街を進み、車も通れない細い路地の奥。地元の人でもなかなか足を運ばない場所に、「イチリンハナレ」は静かに佇む。
東京・築地にある人気店「東京チャイニーズ一凛」の“離れ”として誕生した同店。フランス人外交官の邸宅として建てられた築40年の日本家屋に、すぐ裏は山という緑豊かな環境。風情ある様式美に彩られた空間だけでなく、駅からの距離も独自の演出の一部になると考えた。
開業にあたり、リノベーションを行ったのは、カウンターのある空間と厨房のみ。日本建築の専門家に選定を依頼し、柱や建具、窓など、残せるものはすべて残した。時を重ねたものにしか出せない空気感を大切にしたいと、鍵穴やネジなどの小さな部品も可能な限り温存した。「99人にいいと思ってもらえるものは案外簡単で、難しいのはたったひとりにしか届かないかもしれない『本質』にこだわり続けること。どんなに小さなことでも、わかる人にはわかる。その鑑識眼を持って磨き上げていく行動の積み重ねが、再び足を運んでもらえるだけでなく、大切な人にも勧めたくなる店へと成長を遂げるはず」と店主の齋藤宏文さんは話す。
メニューづくりでも同様の考えから、「体験してほしいこと」をメインに考案。中華の枠にとらわれず、今ここで自分にしかできない表現を皿上へ紡ぎ出す。「最初は正直、勇気がいりましたが、ほかと比べられることができない表現をしていきたい。そういう強さや想いは、必ず形になって共有できる、伝わる、と本店でお客さまから教わりました」
本店の常連への告知のみでひっそりと立ち上げた店は、人が人を呼び、わずか3カ月後には予約でいっぱいとなった。今日もここにしかない体験が静かに繰り広げられている。
其の一
自分のやり方に固執しない先人たちの思いに寄り添う
其の二
古いものを輝かせるすべを身につける
其の三
委ねるべき件は専門家へ価値を自分で判断しない
鎌倉の古民家という高競争率の物件を同店が譲り受けられた理由には、家の形を残すことと飲食店であることがあった。前オーナーがお客さまとして、いつでも来られることを喜ばれたという。「以前の邸宅に訪れたことのある方が偶然いらっしゃるなど、想像していなかった喜びに出合えるのは古民家ならでは。お客さまから伺う思い出話を伝えていくのも重要な役割。古いものをより輝かせていく技術を身につけることが、今の課題です」と齋藤さん。
イチリンハナレ
神奈川県鎌倉市扇ガ谷2-17-6
0467-84-7530
●11:30~15:00(13:00LO)17:30~22:30(20:00LO)
●月休
●コース 昼3500円~ 夜10000円〜
●18席
www.whaves.co.jp/ichirin/kamakura/
予約が取れないことで知られる鎌倉フレンチの名店「ミッシェル ナカジマ」だが、開店当初は鎌倉駅から徒歩23分という立地で集客に苦労したという。「認知してもらえるまでにかなり時間を要しました。それもあって、人の多い場所で観光客をターゲットにした店をずっとやってみたかったんです」と中嶋秀之さん。10年以上の長い構想を経て、念願の2号店「北鎌倉 紫」を開店した。北鎌倉駅から鎌倉を代表する観光名所のあじさい寺へと続く、明月院通り沿いという抜群の立地を誇る古民家レストランだ。
食堂としても使用していた築30年弱の住居は、柱を抜かないという条件のもと、全面改装を施した。本店では移転も経験した中嶋さんだが、古民家の店づくりは想定外なことの連続だったという。3500万円の予算は、結果として4500万円にまで膨み、庭や外壁はスタッフとともに手作業で整えるなど、完璧なスタートではなかったが、鎌倉らしさを求める観光客からは大きな反響が得られた。「観光のお客さまを迎えるのに、これ以上ない物件でした」
メインメニューは「牛頬肉の赤ワイン煮」のみ。基本的に自分は厨房に立てない2号店だからこそ、人に任せられるシンプルな料理で、かつ万人受けするメニューをと考え抜いた結論だ。狙いどおり、アジサイの咲く季節には、昼の約4時間で300人のお客さまを迎える大人気店となった。閑散期の客足もまた懸念どおりの少なさだったが、本店での経験を活かし、おいしいものを真面目に提供し続けることで、リピーターや地元客を徐々に増やしている。 まだまだ軌道に乗ったとは言えませんが……という言葉とは裏腹に、早くも3号店の構想を練り、ブランド化へ向けての意欲を燃やす。「鎌倉に紫あり」となる日も近そうだ。
其の一
物件は運とタイミング いつでもすぐに動ける準備を
其の二
開店後も想定外の出費あり一から作るより資金が必要
其の三
柔軟な発想で難局を楽しむ店づくりの苦悩は笑い話に
理解の深いオーナーと巡り合えたこと、スタッフに恵まれたことが、何よりも幸運だったと話す中嶋さん。提供する料理や内装のイメージなど、最初に細かな点までしっかりと説明ができたことで両者からの信頼を得たと感じている。開業までにはさまざまな困難があり、悩みは尽きなかったが、今ではすべて笑い話となり、お客さまとの会話のネタに。制約があるからこそ辿り着けた発想もあり、課題をどう楽しめるかが古民家を活かした店づくりの秘訣のようだ。
北鎌倉 紫
神奈川県鎌倉市山ノ内187
0467-67-6159
●10:30~20:00(19:30LO)
●月休(祝日の場合は翌火休)
●コース 2600円~
●44席
http://kitakamakurayukari.com/
君島有紀=取材、文 小寺 恵=撮影
本記事は雑誌料理王国290号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は290号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。