1ドルが300円以上もした1973年、単身海を渡った料理人がいた。東京・三田の老舗「コート・ドール」のオーナーシェフ、斉須政雄さんだ。12年間フランスで懸命に働き、同僚だったベルナールパコーさんとパリに開いたレストラン「ランブロワジー」を、22カ月でミシュラン二ツ星の店に育てあげた。
その12年の間に、斉須さんは自分にとって〝たった1冊の教科書〟と呼べる師と出会う。パリの三ツ星レストラン「ヴィヴァロワ」のオーナーシェフ、クロード・ペローさんだ。当時の「ヴィヴァロワ」はヌーヴェル・キュイジーヌの雄。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったという。「28歳だった僕は、そこではじめて『仕事ってこんなに楽しかったんだ』と思えたんです」
厨房では、さまざまな人種のスタッフが働いていたが、ペローさんは誰一人、差別しなかった。自由な空気がみなぎっている。厨房には音楽が流れ、興に乗ればペローさんがマダムとダンスをしたりする。
ペローさんは、若手にもどんどん機会を与えてくれた。若いスタッフが作った料理がよければ、その夜のメニューに出したりする。問題があれば、的確にアドバイスしてくれる。「僕も料理を一生懸命考えました。わからないことは何でも知りたいから、毎日同僚たちを相手に質問攻めです。『マサオがいると仕事にならない』と苦笑されるほどでした」
しかも、厨房はいつもピカピカ。ステンレスには傷ひとつない。それも、ペローさんがスタッフに掃除のルールを教え、守らせているからだ。「リーダーはこうあるべきだということも、ここで教わりました」
1985年7月に帰国。翌年2月、「コート・ドール」を開いた。
店を訪れて驚かされるのは、厨房の美しさだ。オープンから30年も経っているのにどこも光り輝いている。それも、新品のきれいさではない。長い間、ていねいに磨き込まれた、いわばいぶし銀の美しさ。聞けば、夜の仕事が終わると、並行してスタッフ全員で掃除するという。「掃除という行為も、料理という行為のひとつだと思います」オーナーだからといって、自分を特別扱いしない。
「人は万能ではありません。得意なものもあれば、不得意なものもある。だからこそ、チームメイトと力を合わせ、足りないところを補い合いながら、店全体で高みを目指すことが大事だと思っています」ペローさんがそうだったように、斉須さんも、どのスタッフとも分け隔てなく接する。最近はむしろ、自分のほうが若いスタッフに順応するようにしている、と微笑む。スタッフの穏やかな表情が、斉須さんのその言葉を裏付けているようだ。今回作ってくれた料理は、ヴィヴァロワで昔から出していたひと皿。「はじめて食べたときに、『アッ、漬物だ』と思ったんです。おいしい、と思った。日本に帰ったら、絶対に店で出そうと思いました」
毎日、毎日、自宅で作って、〝斉須政雄のひと皿〟にしていった。
今も師と仰ぐペローさんは、偉ぶらず、倹約家で、寛大で、穏やか…。「ある意味、本当に普通の人だった。ペローさんを見ていると、『プロを極めると素人になる』のかな、と思えてしまうんです」
〝素人〟だから、ゲストも気負わず店に来ることができる。
クロード・ペローのDNAを受け継ぐ斉須政雄。そのDNAもまた、確かにコート・ドールのチームメイトに受け継がれている。
野菜の蒸し煮 コリアンダー風味
ズッキーニやカリフラワーなどの野菜に、塩・コショウ、レモン汁、オリーブオイルを少量加えて蒸し煮するだけ。「それぞれの野菜の個性が補完しあって旨いひと皿になる。店も同じ。いろんな個性のスタッフが協働していい店になる」と斉須さん。
フランス南東部のアルデシュ県の旅籠を営む両親のもとに生まれ、幼い頃から「ゲストを心からもてなす」ことを、ごく自然に学んでいった。レストラン「ピラミッド」のフェルナン・ポワンのもとで修業をし、1966年、パリ16区のビクトル・ユゴー通りに自身のレストラン「ヴィヴァロワ」を開く。ヌーベル・キュイジーヌの旗頭といわれ、72年から83年までミシュラン三ツ星を維持する。スタッフの見事なチームワークは、他のどこよりも際立っていた。また、この店で出す「赤ピーマンのバヴァロワ」は世界的に有名。斉須さんはもちろん、「ランブロワジー」のベルナール・パコーさん、「クイーンアリス」の石鍋裕さんなどはこの店の卒業生だ。
山内章子=取材、文 星野泰孝=撮影
本記事は雑誌料理王国259号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は259号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。