偉大なる師、アラン・シャペルへ


ポール・ボキューズ、トロワグロらと同様、日本に影響を与えたグラン・シェフ、アラン・シャペル。彼のもとで働いた日本人のなかには、現在も第一線で活躍しているシェフたちも少なくない。「ハウステンボスホテルズ」名誉総料理長、上柿元勝氏もそのひとりだ。シャペルの名を冠したレストランを任されるほどの信頼関係を築いた氏にとってシャペルとは…

ひと皿に受け継がれるシャペルの技と心

シャペルから学んだもの。第一はテクニックの本質

1977年、27歳の上柿元勝は、念願だった「アラン・シャペル」の厨房に入ることを許された。当時、シャペルは39歳。3年前にミシュランの三ツ星をとり、リヨン郊外ミヨネーには世界中から食通が足を運んできていた。

初出勤の日、上柿元は「これは、とんでもないところに来た」と背筋が寒くなった。隅々まで磨き上げられた厨房で、スタッフは粛々と仕事をしている。静かな緊張感は、シャペルが姿を現わすことでさらに高まった。当時、厨房ではアラン・デュカス、ゲット・ヴァン・ヘック(ベルギー「デカミール」シェフ)、ドミニク・ルスタン(元ニース「ネグレスコ」シェフ)、ミッシェル・ルー(ロンドン「ル・ガブロッシュ」シェフ)たちが働いていた。その後のフランス料理界を牽引するシェフたちはまだ原石で、それゆえに火花を散らしながら切磋琢磨していたのである。

毎朝6時頃、シャペル自身が市場や農家を回り、素材やテーブルに飾る花を仕入れてくる。10時半頃戻ったシャペルは当日のメニューを作成する。各セクションのシェフ・ド・パルティ(部門シェフ)が動き、それに合わせてコミ(下働きの料理人)も動く。全体がひとつに連携され、むだのない動きのなかで集約していくのである。

シャペルの料理には固定されたルセットがない。著書『料理ルセットを超えるもの』で、シャペルは「がちがちに固定されたルセットは、料理人が本来持っているはずの創造への自由な動き、変化、技術革新、驚きといったものに対する喜びを抑えつけてしまう」と主張する。同じアスパラガスでも、走りなのか、旬なのか、どこの畑でとれたのかで異なる。さらに、同じ畑でも、日当たりのいい場所とそうでない場所では、稔り方が違う。どう扱えば、素材がいちばん喜ぶのか見極めるのだ。そして、それを形にするのはテクニックである。

「シャペルさんに学んだ第一のものは、テクニックです。小手先ではなく、技術の本質。なぜ、こうなるのか。こうするのか。絶えず考えさせられました」考えながら、体を動かす。ドーヴァー産の大きな舌平目を毎日20尾以上もさばき続けた。自然と体が動くようになる。そうしていると、最初の修業先、大阪の洋食屋「野田屋」で学んだことがよみがえってきた。野田屋では、昼の休憩が近づくと先輩がマヨネーズづくりを命じた。途中で止めれば分離する。昼休み抜きで、必死で攪拌した。その時の基本の動きが、シャペルの厨房で役に立った。

「テクニックは理論と実践のふたつが重要です。体で覚え、さらに知識として身につけた。だから忘れません。料理人はある期間、徹底して体を動かすことが必要なのです」

佐世保魚市で水揚げされた天然スズキとホウレン草、トマトのショーソン プロヴァンス風
ショーソン(パイ包み)もシャペルの得意料理のひとつ。パイの中身は魚のムースで包んだスズキとトマトのコンフィ、さらにはホウレン草のソテーも入れてあり、ナイフを入れたときの彩りも楽しい。 アンチョビバターのほのかな香りをグリーンソースとともに。

第二は素材への敬意、そして生産者への感謝

シャペルは近隣の生産農家を大切にして、常に感謝と尊敬の気持ちをもっていた。生産者の人々もその気持ちに応え、本当にいい素材は市場に出さず、シャペルのために運んでくれたのだ。

「第二に学んだものは、素材への敬意、生産者への感謝です」

長崎「ハウステンボスホテルズ」の総料理長である上柿元は、佐世保産の魚や平戸産グリーンアスパラガスなど、地元の素材を積極的に取り入れるだけでなく、ことあるごとにそのよさを宣伝し、地域の活性化を図ってきた。それは地産地消にもつながっていく。生産者がレストランにやってきて、料理を食べる。豪華な空間のなか「ネクタイするのは葬式と結婚式くらいやね」と照れながら、「こんなおいしかとね」「これが俺のつくったジャガイモかねぇ」と目を丸くする。それが最高にうれしい。

しかし、入店したばかりの上柿元は、シャペルに怒られてばかりいたそうだ。殴られたり、蹴られたりした。「俺の弟子じゃない。もう、帰れ」と言われたこともあるそうだ。その上柿元に、ある日、シャペルは「もし、カミー(=上柿元)がフランス人なら、今すぐにでもMOF(最優秀技術者)をとらせたいと思っている。お前のことを信頼している。がんばってほしい」と言った。そして81年、「神戸ポートピアホテル」に「アラン・シャペル」オープン。副料理長として上柿元を送り込み、83年には日本人料理長に抜擢した。シャペルに認められたことがうれしく、なんとしても期待に応えなければと誓った。

「シャペルさんの弟子のなかでは、私はもっとも長くそばにいて、学ばせてもらった。今の私があるのは、アラン・シャペルという偉大な料理人がいたからであり、フランスという国、フランス料理があったからです」

フランスの単なるコピーではなく、日本のフランス料理であること。流行や小手先の技術に流れない、現代の料理であることを上柿元は求める。

「私の料理は、ソースもしっかりとしています。そうでなければ、ワインが受け止められない。ソースがあって、ワインがあって。それこそがフランス料理の華なのです」

上柿元の名刺の肩書きは、「料理人」である。生涯一料理人として、人々に喜びや感動を与え、常に素材と人材に感謝している。そして、シャペルをはじめ、「ラ・メゾン・ピック」のジャック・ピック、「ル・デュック」のジョン・ミンケリンに、そしてフランスに恩返しをしていきたいと考えている。

(文中敬称略)

平戸産グリーンアスパラガスと近海産足赤エビのフイユテ
シャペルのスペシャリテのアレンジ。フイユテとはパイのこと。
オーダーが入ってから火を入れ、ア・ラ・ミニュット(短時間)で仕上げるので、アスパラガスの香りと歯ざわり、足赤エビ(クマエビ、車エビの一種)の甘味が生きている。 トリュフと、軽く酸味をきかせたサバイヨンソースで。

アラン・シャペル
「リヨンのグランド・キュイジーヌの体現者」と謳われ20世紀を代表するグラン・シェフのひとり。1937年、リヨンに生まれて15歳の頃からリヨン料理界の重鎮、ヴィニャール氏のもとで技術教育を受ける。19歳から2年間は「ピラミッド」に入った。68年から父親の後を継ぎ、73年に三ツ星「アラン・シャペル」となってからは、技術の確かさ、地方色の豊かな表現でその名声を不動のものにした。

かみかきもと まさる
1950年鹿児島県生まれ。74年に渡仏し、パリとジュネーブの「ル・デュック」、ヴァランスの 「ラ・メゾン・ピック」、ミヨネーの「アラン・シャペル」などで修業した後、再び「アラン・シャペル」へ。帰国後の81年、神戸の「アラン・シャ ペル」へ。91年より長崎「ハウステンボスホテルズ」の総料理長。現在、名誉総料理長。

中島久枝-文、渡邉高士-写真

本記事は雑誌料理王国2007年7月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2007年7月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


SNSでフォローする