師匠と弟子の物語 長坂 松夫 24年6月号


本当に学びたいという真剣な心で
好きと伝えれば好機は広がる

近年「日本の風土に根ざした中国料理」に取り組むシェフが増えているが長坂松夫さんはこの動きへの種を蒔いた人物の筆頭に挙げられる。常に好奇心を持ち、古典に敬意を表しながら「日本の中国料理」を模索する姿勢は多くの弟子を刺激し、優秀な出身者を輩出。今も高松市壇ノ浦の自店で若いスタッフを指導する長坂さんに修業時代のこと、弟子のこと、若い世代に託している夢について聞いた。

私の師匠は、井田恭平さんという方です。1968年、18歳で名古屋の都ホテルに入社した時、井田先生はまだ23、24歳であったと思いますが通訳兼日本人の料理長を務めておられました。当時は東京のみならず、全国の地方都市の大型ホテルで中国料理店がどんどんオープンしていた時期。中国から料理人を料
理長として招き、その下に中国語と料理のできる日本人を通訳兼副料理長に配する、というのがパターン。井田先生もそのような役割で活躍なさっていました。

井田先生は四川飯店の創始者である陳建民先生の直接のお弟子さんで、非常に優秀な方。厨房では暇があれば中国語の料理書を開き、辞書を片手に読んでおられる。そしてたまに料理を作っては僕を呼び寄せ、「これ古典の味だから」と食べさせてくださる。

そんな井田先生の姿を見て「中国料理って、勉強しないと学べないんだな」と気づいたんです。先生からは、一言も「本を買いなさい」「古典を勉強しなさい」と言われたことはないですよ? でも先生を見ているうちに、自分も仕事が終わってから本で勉強するようになりました。そうやって中国料理は文化であり、歴史であることを学びました。

ただし私は井田先生から、実は料理はほどんと教えていただいていないんです。一番下っ端でしたから、直接先生の指導を受けるポジションでもなかった。それに実は、先生の下には2年ほどしかいませんでした。というのも20歳になった時、井田先生の差配で、高松グランドホテルの中国料理店に副料理長として出向することになったから。でも修業を始めてたったの2年、がむしゃらに働いていましたがまだフカヒレの姿煮だって作ったこともないのに(笑)。

それで井田先生に「なんで僕なんですか?」と聞いたら「お前は人を使えるから」とのこと。たしかに私はちょっと変わっていて、先輩たちとの寮生活の中、日曜はバスケットボールをやりたいのでみんなを無理やり朝早く起こして(笑)集まってもらったりしていました。そんな、厨房では一番下なのに人をまとめていたところをご覧になっていたのでしょうね。「料理は後から覚えなさい。一生懸命やったらおいしくなるから大丈夫」と言われて送り出されました。そして副料理長で赴任しましたが、1年もしないうちに料理長になりました。まだ21歳の時です。

自分から相手に興味を持つ。そうしたら向こうも心を開く

なので私が料理を学んだのは、自分が料理長になってから。たとえば、同じ高松の他のホテルに香港から優れた料理長が来たと聞いたので、頼み込んで休みの時に厨房で付きっきりで学びました。私は四川系だったので、「広東はこうするんだ!」なんて驚きながら、たくさんの技術や料理を吸収できました。

あと、台湾や香港、中国本土に食事にたくさん訪れ、そこでも料理長に頼み込んで厨房に入れてもらいましたね。私の20〜30代はそんな感じで、いろいろな人から料理を学んで自分なりに合体させたようなものです。

ちなみに70年代の当時、中国では女性用ストッキングと100円ライターをプレゼントすればたいていの人は喜んで希望を聞いてくれました(笑)。だから中国旅行の前はそれらを大量に買い込むのが通例。あとの秘訣は、本当に学びたいというまっすぐな心と、相手に対して興味を持っていて好きです、という気持ちを伝えることでしょうか。

これは親父が私にくれた最大の財産だと思っているのですが、彼は「世に出たら、嫌われている人というのが必ずいる。でも、こちらから好きになれ。興味を示したら相手もお前の方を向く」と教えてくれたんです。なので、私は人を嫌いになったことがありません。世の中、人に好かれようと生きる人が多いですが、本当は自分が人を好きになることを勉強すべきだし、努力すべきなんです。料理人は客商売。そしてお客さんはどんな人が来てくれるかわからない。だから、人が好きじゃないとできません。好きになると料理にもおもてなしにも思いが込もりますしね。

「炉龍蝦海帯(ロブスターのメノリ焼き)」。半割りロブスターに、メノリ(生海苔)入りの味噌を塗り、オーブンでこんがり加熱。メノリがしっかりと香り、トマトペーストや豆豉醤入りのオリジナル味噌の力強い風味と調和する。

「考えさせる」指導でスタッフの間にいい流れが生まれる

そのようなわけで、「師匠と弟子」というテーマでいえば、私の師匠は井田先生と、たくさんの中国人の料理人さん達。一方の弟子は、本当にみんな頑張っていて嬉しいですね。私は40歳くらいからスタッフを育てる時、自分で考えるよう仕向けるようにしました。それまでは言って聞かせていたのですがなかなかうまくいかない。でも、「なんで?」とていねいに聞いて考えさせるようにしたら、みんな能動的に動いて改善につながることが増えました……いや、みんなじゃないな(笑)。10人に1人くらいいる、本当にやる気のある優秀な人かな(笑)。でも、そういう人が周りを導いて、いい流れが生まれるんです。

私には夢があります。それは、日本人が日本のフィルターを通して作る、日本生まれの中国料理が、中国や世界で愛されること。私の上の世代の日本人の中国料理人は、中国人から本場の味を学び、根付かせてきた。私の下の世代は、試行錯誤しながら日本の中国料理を打ち立てつつある。実現するのはさらにその下の世代かな? 中国料理には数百年かけて磨かれてきた伝統があり、だからこそ時代や地域に応じて柔軟に変われる懐の深さもある。それを生かした、日本発の中国料理をぜひ確立してほしい。そんな願いを、私は下の世代のみんなに託しています。

長江と長坂松夫さん

長坂松夫さんが1983年に33歳で独立し、最初に店を構えたのは香川県高松市。中心部の繁華街に「中国菜館 長江」をオープンした。公式な宴会から家族の団欒までのさまざまなニーズへの対応、長坂さんの確かな料理が評判を呼びたちまち人気店へと成長。その後、郊外にカジュアルな「シーサイドチャイナ長江」もオープン。さらに97年、東京・西麻布に「麻布長江」を開業した。

長坂さんの料理は古典に則りつつ、日本の素材や日本のお客に合うよう軽やかに工夫されているのが特徴。他ジャンルのシェフ達とも交流し、彼らから学んだ技術を柔軟に料理に取り入れた。明るいキャラクターと料理のロジカルな説明で、テレビなどのメディアでも人気に。2009年に東京の店を弟子の田村亮介氏に譲り、翌年60歳で高松市の壇ノ浦に「長江SORAE」を開業。波の音と海の風の通る店でお客を迎える。

「自然の中で食事を楽しんでいただきたい」と、高松市中心部から車で約15分、壇ノ浦に面して開業。窓の外に海と、湾の対岸の山を望む。

長坂 松夫 ながさか まつお
1949年、愛知県出身。高校卒業後「名古屋 都ホテル」に入社、ほどなくして「近鉄四川飯店」に移り井田恭平氏に師事。21歳で高松グランドホテル「鳳凰」料理長に就任。83年高松市内にで「中国菜館 長江」を独立開業。86年に高松市郊外に「シーサイドチャイナ長江」、97年に東京・西麻布に「麻布長江」、2010年「長江SORAE」を開業。

長江SORAE
香川県高松市屋島東町32-12
TEL 087-843-2567
12:00~14:30
17:30~
火休

師匠と弟子の物語 麻布長江出身


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