日本料理の分類を識る 23年10月号 


時代の移り変わりとともに、様々な要素をとりいれたり、逆にそぎ落としたりしながら、変化と分化を遂げた日本料理。ここでは江戸末期までに成立した日本料理を狭義の意味での日本料理の枠組みとし、分類を解説する。

【有職(ゆうそく)料理】

「萬亀楼」で撮影した、差し花が施された嶋台。同店が継承する生間流は平安中期、宮廷の料理方を務めたことにルーツを持つ。
photo: Shohee Murakawa

有職料理は、平安時代の宮中で作られた料理が始まり。毎年正月、または新たに大臣に任じられた時、披露のためにその大臣が他の大臣以下の殿上人などを招いて催す大規模な宴会「大臣大饗」がもとになったとも言われる。その配膳は豪華なもので、例えば「杉高盛」は、神事の供え物に由来して山型にうず高く盛り付ける。嶋台や州浜台(すはまだい)、高坏(たかつき)には差し花をたてる。

鎌倉時代に政治の実権が公家から武家へ移ると、本膳料理の様式と影響し合いつつ、独自の接待・式典料理としての「有職料理」となった。食材の穢(けが)れを祓(はら)い清める「式庖丁」は宮中の節会でも行われてきた食の儀式。中でも、京都の生間家は平安時代に始まった宮廷料理方で、室町期には四条流・大草流・進士流とともに発展し、江戸期まで栄えた。

激動の明治維新、京都に残った生間家は宮家の扶持を離れることに。京都「萬亀楼」は現在も、生間流式庖丁や有職料理を今に伝えている。

【精進料理】

「永平寺 柏樹関」では、永平寺の典座老師から教わった精進料理の真髄と技法を用いながら、旅先の宿泊施設での仕様に昇華させた料理が楽しめる。
photo: Naoki Mizuno

鎌倉時代に中国から日本へ伝わった禅宗の精進料理。動物性食品や匂いの強い食材を食べない僧侶特有の食事を、町衆が仏事にまつわる料理にちなんで「精進料理」と呼ぶようになった。

宗派や時代によって、作法や使わない食材などルールには差異がみられる。例えば福井県の「永平寺」で知られる曹洞宗ではこんな決まりがある。味付けは〈苦・酸・甘・辛・鹹(塩辛い)〉の五味に「淡味」(素材の持ち味を生かすための薄味)を加えた六味で構成すること。肉、魚、乳製品、卵のほか、カツオ出汁やゼラチンなど動物性食品は使わないこと。強い匂いが修行の妨げになるので、ニンニクやニラ、ネギ、ラッキョウは食べないこと。そして、仏教で守るべき戒めの徳目「殺し」「盗み」「性欲」「嘘」を誘発する「酒」は飲まないこと。

食器は基本的に陶磁器ではなく黒や赤の漆器を使う。

献立は本膳料理と同様で、一汁三菜、二汁五菜、三汁七菜などの形をとる。

精進本膳料理の配膳例(三汁七菜)

飯と雀(香の物)は除いて、三つの汁と、七つの菜で構成されている。
専門料理全書 改定日本料理(永田猛、春藤信也、下畠照正著・辻学園調理・製菓専門学校発行)、「日本料理の形式」P185より

【本膳料理】

石川県金沢市にある「大友楼」(P28~)は代々、加賀藩の料理人を務めた。与の膳、五の膳まである本膳料理。
photo: Naoki Mizuno

正式な日本料理の膳立てである本膳料理は、室町時代以降、武家が力を持つとともに、その食事作法として確立していった。江戸時代に入ると、本膳料理の文化はさらに円熟していき、お膳は華麗に、料理は芸術性・内容・形式ともに発達していった。

調理法、器の位置、様式、食事作法などが細かく決められているのが特徴。

必ず膳にのせて、本膳(一の膳)、二の膳、三の膳からなり、一汁三菜〜三汁九菜などの種類がある。最も格式が高いものだと、さらに与の膳、五の膳が出て、汁や菜の数が増えればさらに膳の数も増える。与の膳、五の膳は持ち帰る習慣もあるという。料理の呼び名は、「汁」「お向こう」「鱠(なます)」(または膾)「お平(ひら)」「猪口(ちょく)」など独特。

また現在は、江戸時代に出てきた略式の本膳料理「袱ふ く さ紗 料理」のことを本膳料理と呼ぶことも多く、に配膳の一例を示した。近年では格式高い儀礼的な宴会や婚礼などで用いられるほかはあまり利用されなくなった。

袱紗(ふくさ)料理(略式の本膳料理)の配膳例(二汁五菜)

飯と香の物は除いて、二つの汁、五つの菜で構成。汁はご飯を食べるための汁物のこと。「なます」は向付とも言い、細切りの魚肉を酢で和えれば「鱠」、精進ものなら「膾」と書く。かぶせ蓋がついた「坪」には煮物や和え物、深さのある「猪口」には浸し物や煮物などを盛る。「平」には海山里の取り合わせ5種、焼物は小鯛の尾頭付き塩焼きが一般的。
専門料理全書 改定日本料理(永田猛、春藤信也、下畠照正著・辻学園調理・製菓専門学校発行)、「日本料理の形式」P184より

【茶懐石】

江戸初期の大名茶人、小堀遠州が流祖の「遠州流」。その家元付き料理人、小室光博さんによる茶懐石の最初の膳。
photo: Hiroyuki Takeda

一服の茶を通じて、人の心と心を通わす茶の湯。亭主は掛け物や花など折々の趣向を凝らして茶室を設え、茶碗から茶杓まで道具を組み、客をもてなす。茶懐石とは、茶の湯を楽しむ前に出される軽い食事のことで、亭主から客へ「遠方から茶会に来てくれたお礼と、茶を飲む前のおしのぎを」という気持ちが込められている。目的は茶を美味しく飲むことにあり、量は少なめ、淡い味付けである。料理の順番は、まず折敷の上に、向付・半蒸れの飯・汁が出される。その後は流儀によって順序が異なるが、銚子盃、煮物椀、焼物、強肴、吸物、八寸、湯、香物で締める。(この間に、二回の飯次や、二度目の銚子が出たりする)。

ちなみに懐石が今挙げた特質を始めから持っていたわけではなく、「懐石」という言葉が一般化したのは明治以降。さらに遡ると、宴会料理と茶の湯のための料理を区別しようという意識が芽生えたのは16世紀末、千利休が「わび茶」を大成させた時期。

茶懐石の基本様式

専門料理全書 改定日本料理(永田猛、春藤信也、下畠照正著・辻学園調理・製菓専門学校発行)、「日本料理の形式」P185より

【会席料理】

本膳料理に比べて儀式や形式に縛られない自由な料理。江戸時代に入り、世に平穏が訪れると庶民文化も向上。文人や歌人、俳人などが酒や料理を楽しみながらその道を論ずる「会席」が行われた。やがて料理屋文化にも移行し、「会席料理」の看板を掲げる店が登場。酒と料理と会席を楽しむ風潮が、現在の会席料理の型を作っていく。

【板前割烹】

昭和に入り、上方の料理職人とその料理を楽しむ旦那衆により、「板前割烹」の形態が生まれた。会席料理が座敷でおまかせ料理をいただくのに対して、板前割烹はカウンター形式の即興で作り上げる料理。その日仕入れた食材を、カウンター越しに紹介しながら好みを聞いて、料理と献立を即興で組み立てる。

【カウンター会席】

1990年代後半〜2000年初頭頃から、カウンター主体の会席料理店が増加していく。これは客の嗜好の多様化、料理人の働き方の変化に伴って生まれた形態と言えそうだ。本特集では、これを「カウンター会席」と定義して紹介。カウンター形式、客席から厨房が全て見渡せるオープンキッチン形式は、料理人1人1人の顔が見え、店の魅力となっている。

参考文献:精進料理考(吉村昇洋著・春秋社発行)、日本料理の歴史(熊倉功夫著・吉川弘文館発行)、専門料理全書 改定日本料理(永田猛、春藤信也、下畠照正著・辻学園調理・製菓専門学校発行)、定本日本料理 様式(主婦の友社発行)、料理王国234号

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