佐藤伸一さんは、フランスで日本人が二ツ星をとるのは無理、というジンクスを電光石火の早業で破ったシェフである。「パッサージュ53」は、2009年の4月にビストロとしてオープンし、同年9月にガストロノミーのレストランとしてリニューアル、翌3月に一ツ星を、そして1年後に二ツ星を獲得した。
佐藤さんは、「フランスに来て1年経った頃、アストランスの料理に出会ったのがすべての始まりだった」と振り返る。それまでは、日本のフレンチのほうがきれいだし美味しい、と感じていたそうだ。
「今思えば、最高峰を見ていなかった。でも、アストランスの料理は、それまで食べたことも感じたこともない、あまりにもすごいものでした」。食後、働かせてほしいとシェフのパスカル・バルボさんに直訴し、翌日から2年間の修行が始まった。魚は佐藤さんに一任され、シェフを含め4人の厨房で、2カ月先まで満席という状況の中、量をこなしながら質を求められる日々。驚いたのは、日本で学んだ〝基礎〞が、何一つ通用しなかったことだ。「今でこそ、ソースがたくさんかかっている料理など見なくなりましたが、それを始めたのがパスカルでした」。最先端の店には世界中から有名な料理人が訪れ、入ってくる情報のレベルも量も並外れている。未知だったガストロノミーの世界が、目の前にあった。佐藤さんはここで「料理の自由さ」と「素材へのこだわり」を学んだ。
しかし佐藤さんは、この段階では、フランスで勝負しようとは考えてもいなかった。当時は、日本に帰るのが当然の風潮だったからだ。
では、何が佐藤さんをパリに引き止めたのか。きっかけは、スペインの「ムガリツ」で働いたこと。そして、東京で店を開く計画を具体的に検討したことだった。この時、それまで「当たり前」だったフランスの食材の魅力を思い知ることになる。「スペインの食材は力が足りず、大味で繊細さがないと感じました。日本では和牛は脂っこいだけで旨味がなく、野菜はソースに負けてしまうと感じた」。結果、自分の目指す料理はフランスでしか作れないという結論に達し、パリで店をもつという発想が初めて生まれた。
その後、「日本人で初めて二ツ星をとるレストラン」という名の事業計画書を作り、模索する毎日を過ごした。過剰なほどの自信をもっていたがチャンスは訪れず、苦しい時代が3~4年続いた。
佐藤さんがこだわるのは、オリジナリティだ。クラシックな方向を望む人からは「パンチがない」と批判されるが、むしろ、自分はどんどん優しい方向に向かっていると言う。「お客さんが喜ぶツボはわかっているけど、それをやったら自分の料理じゃない。そういうのはロブションあたりでやってもらえばいい」と屈託なく笑う。数年前から、皿の端に盛りつけるのが流行しているが、佐藤さんは「それはノーマが始めたことだから」と、絶対にやらない。「日本人は再現がうまい。日本のフレンチは、技術的レベルは高いけどコピーが多く見えますね」とも言う。
佐藤さんは、課題さえクリアすれば二ツ星はとれる自信があった。自分には同レベルの素材と技術があると信じていたからだ。では三ツ星は?
「自信ゼロ。どうして以前はあんなに自信があったのか……。無知だったから言えた。今は足りないものばかりが見えてしまう」
現在は、北欧からすでに南米へと流行が移り、虫という新たな食材も登場している。どこにいても流行をキャッチできる現代だからこそ、またフレンチの括りが曖昧になっているからこそ、その土地、その人らしさのあるオリジナルが求められる。佐藤さんもまた"自分料理”を生み出そうともがく一人である。
Shinichi Sato
1977年北海道生まれ。同郷の三國清三シェフを目指して札幌グランドホテルに入社。22歳で渡仏。「アストランス」「ムガリツ」などで修行。2009年4月「パッサージュ53」を開店(共同経営)。
町田陽子=取材、文 井田純代=撮影
本記事は雑誌料理王国228号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は228号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。