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田崎以後 〜日本一のソムリエになってから〜


「ソムリエ」をワインのプロフェショナル、誠実にして華麗なサービスをする仕事として、日本人に浸透させたのは、田崎真也さんによるところが大きい。彼が世界一のソムリエとなってから、日本のレストラン界にもたらしたものを考えてみる。

松本清張さんはまったく酒が飲めなかったが、好奇心は実に旺盛だったから、ヨーロッパヘ取材に行き、「ソムリエ」という言葉をいち早く覚えてきた。95年に田崎真也さんが「世界一」に輝く10年以上も前のことで、「ソムリエ」を知る人はまだまだ少ない時代だった。南仏のレ・ボーにある有名レストラン「ルストー・ドゥ・ボーマニエール」(当時は三ッ星だった。現在ニツ星)で食事をした際に、記念として店のメニューを所望した。なかなか渡してくれなかったが、かなりのチップをはずんで譲り受けてきたらしい。

「ほら、あのなんて言ったっけ、あのワイン係りの……」

そこで私が「ソムリエですか?」と応じたことが何度となくあった。英語は達者な松本さんだが、ソムリエのような新しい言業はすんなりとは出てこなかったのだ。「メニューは君に贈呈するよ」といって二階の書斎まで探しに行ってくれたが、資料の山に埋もれて見つからなかった。

「世界最優秀ソムリエコンクール」が東京で開催される前に有力候補として、田崎さんが下馬評に上がったが、優勝を信じる人は少なかった。フードジャーナリストのO·Y嬢は、「もし優勝したら、莫大な経済価値を生じ、田崎真也ならぬ田崎神話ができるかもしれない」と「週刊朝日」に、駄洒裕交じりの原稿を書いた。

あれから12年が経過し、O·Yさんの予想は的中した。推理小説の世界には、「清張以後」という言葉がある。レストランとワインの世界でも、まさに「田崎以後」というべき現象が見られ、大きな変化が起こった。ひとことでいうならば、日本人にとって「サービス」という概念が、初めて身近になったということではないだろうか。

文明開化とともに西洋料理やワインの文化がもたらされた。異国の文化が日本固有の食文化のなかに入り込むのだから、様々な混乱が生じたのは止むを得ない。ワインをあまり飲めない料理研究家が、外国の文献をもとに教条的な原理原則の啓蒙書を著し、それはそれでワインの理解と普及に役立った。田崎さんだって、最初はそれらの本を熟読してフランスヘ旅立ったのだ。

ソムリエというのは、ワインの産地と品種や生産年をブラインド(目隠し)で当てるだけではない。ワイン(飲料)リストの設計や仕入れ交渉、在庫の管理なども本来の役割なのだ。ホテルやレストランで、そこまで任されているソムリエがいかほどいるかは知らないが、ソムリエがオーナーの店も着実に増えている。そのいっぽう、ワイン以外はわれ関せずで、空いた皿を片づけようともしなかったソムリエはいつのまにか消えていった。予約の電話をとり、客を迎え、料理とワインの注文を同時に受ける万能選手が要求されるようになった。客席でのデクパージュは無論のこと、デザートの「クレープ・シュゼット」を目の前で作る技術も必要だ。

お客の方でも「魚には白、肉には赤」といった教条的なワインの考え方から抜け出して、ようやく自分たちの舌でワインを飲む士壌が育ってきた。そのいっぽうでレストランヘ行くのも良いが、ソムリエとワインの相談をするのが面倒で厄介だという人も結構いる。なにか高いワインを売り付けられるような気がするといって、不信感を持つ人もいる。確かに良いソムリエというのは、店の売り上げに貢献する人かもしれない。田崎さんは、「日本人だから、肉じゃがに合うワインをすすめられないようなソムリエは失格」といい、「ウナギの蒲焼にも合うワインがある」と説く。

田崎さんが凄いのは、レストランという空間で過ごすお客の時間をより幸福感に溢れたものにすることを第一に考えていることだ。ただワインに精通しているだけではなく、「ソムリエの使命はお客さんを喜ばせることにある」と常々公言し、自身でも多くのレストランを経営してそのほとんどが成功している。また、多くの後輩ソムリエを教育し、優秀な人材を輩出したのも隠れた功績だ。

つまるところ田崎真也さんは単なる「ワインおたく」ではなく、レストランの楽しみをプロデュースする哲学を持ち、経営者とお客の双方に向かって発信する力量と人間性があったということだろう。今や、「ソムリエ」なる言葉はすっかり定着し、「本のソムリエ」に「野菜のソムリエ」から「ソバ(蕎麦)リエ」まである。挙げ旬の果てには、「ノ(飲)ムリエ」などというジョークまである。

結局、松本消張さんからは、「ルストー・ドゥ・ボーマニエール」のメニューを貰い損なってしまった。

重金敦之 – 文
文芸ジャーナリスト。朝日新聞社に在社中は名文芸記者として知られ、松本清張、池波正太郎などと親しかった。現在でも渡辺淳一 氏らと交流がある。食の分野に造詣が深く「ソムリエ世界一 田崎真也物語」(中公文庫)など著書多数。

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本記事は雑誌料理王国156号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は156号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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