食の都パリで、食ジャーナリストして活動する伊藤文さんから届く美食ニュースをお届けする本連載。パリ7区にある「アグリュミスト」は、フランスの一流シェフが信頼を寄せる柑橘専門店だ。オーナーで柑橘専門家のローラン・ブガバさんに、アグリュミストが誕生するまでのストーリーを聞いた。
ちょうど一年前の冬に、パリ7区にオープンした「アグリュミスト」。日本語に訳すとすれば「柑橘専門家」という意味だ。
お店のカウンターに10種以上の柑橘類が常に展示されていて、鮮やかなレモン色がエネルギーを与えてくれる 。柑橘類の専門店だ。
オーナーはローラン・ブガバさんで、彼こそが柑橘専門家。通称「シェフたちの柑橘家」と呼ばれている。例えば、日本でも知られる「ジャムの妖精」、クリスチーヌ・フェルベールさんとも懇意であり、ブガバさんが提供する柑橘で、「アグリュミスト」だけで提供するジャムも作っている。ブガバさんの情熱と人間性に魅せられている料理人やパティシエたちは後をたたない。
ブガバさんは、モロッコ人の父とフランス系ヴェネチア人の母を持ち、モロッコのフェズで生まれた。母方の祖父母はパリ郊外の「ヴィラ・ボーソレイユ」という高齢者施設を立ち上げて経営し、ブガバさんはこの施設を3代目として引き継いだ。ビジネスセンスとヒューマニティのバランスに優れて、質の高い生活を提供する高齢者施設として評判の高いグループ企業にも成長させている。
そのブガバさんが仕事を波に乗せた2010年に入ってから、自分の歩む人生について疑問を持ち始めたという。特に、何不自由なく育った自分の子供たちに何が残せるのかということを考え始めたのだそうだ。
ブガバさんの父方の祖父はモロッコにオリーブ畑のプランテーションに一躍買った人の一人だったことを突き止め、モロッコのあちこちを巡った。それと同時に、懇意にしていたレストラン「アストランス」のシェフ、パスカル・バルボさんから、南仏ピレネーで柑橘の栽培に取り組む、フランスではよく知られる農家の話も聞くことになる。そんなことからも、柑橘にも強く心を惹かれていった。なぜなら、モロッコはオリーブだけでなく、柑橘の国でもあったから。コルシカに国立農業研究所INRAとフランス農業開発国際協力研究所CIRADの双方が持つ柑橘施設かあるが、この研究所で所有する柑橘類は1000種にも及ぶ。その研究所の研究員から、この施設で保有している柑橘の多くは北アフリカから運ばれたものだと聞いて、心が決まったという。それは生まれ故郷で柑橘の畑を作るということ。
2013年には100ヘクタールもの土地を手に入れて、INRAの協力も得て、果樹園を作った。実は日本にも渡り、数々の品種改良に関しても地元の柑橘研究機関を訪問して、技術的な指導を得ているそうだ。接ぎ木だけでなく、手作業による受粉で、さまざまな柑橘類のハイブリッドを生み出すのがライフワークだ、とブガハさんは笑う。
金柑とシトロン・キャヴィア、あるいはマンダリン……。1年に1000種くらいの交配を試みて、長期的に成功するのは20、30種くらいだという。こうした交配による柑橘の味わいには、峻烈な美味しさがあり、驚きが溢れる。世界にも柑橘を追い求め、日本の交配種「せとか」の味わいにも感激し、パティシエのクリスチーヌ・フェルベールさんに紹介すると、パリの店のために、さっそくジャムを作ってくれた。そのみずみずしい味わいたるや。
「私は、モロッコ人の父とフランス系ヴェネチア人の母を持ち、フェズで生まれて、パリで育ったという、まさにハイブリッド。柑橘も、いろいろな品種を交配すればするほど、多様性が生まれていく。実は、皆が兄弟であり、家族であるということがわかるだろう。ユートピアへの小さな貢献ではないかと思うのです」。
来年でブガバさんは挑戦から10年を迎える。モロッコの地中海岸に生まれたユートピアの芽が少しずつ広がっている。
text・photo:伊藤 文