トップシェフとして英国や中東の食業界を駆け抜けてきたトム・エイキンズさんが自ら選んだ小さな城、Museで創り上げる料理とは。2022年秋に東京エディション虎ノ門にも進出した彼に、食の女神が微笑む。
トム・エイキンズ(Tom Aikens / 写真下)というシェフは、ある意味、イギリス高級レストラン業界における四半世紀をそのまま体現しているかのような存在だ。シェフ人生のジェットコースターを半ば乗り切り、現在は実に閑静なロンドンきっての高級地区に、美しいコテージ風レストラン「Muse」を構えている。パステルピンクの小さな花がほころぶようなその空間で先日いただいた春のメニューが、素晴らしかったのだ。
トム・エイキンズ。イングランド東部の豊かな自然の中、恵まれた環境の中で食への興味を育んでいった。勉強嫌いで高校はすっ飛ばし、調理学校へ。一流を目指して当時の巨匠たちに師事し、抜群の吸収力とセンス、そしてハードワークでトップシェフに。20代半ばにしてミシュランの星を弄び、メディアで引っ張りだこのセレブリティ・シェフになった。
筆者が渡英した1990年代後半の時点で、英国レストラン業界における「恐るべき子ども」の称号は、すでに料理界の重鎮となっていたマルコ・ピエール・ホワイトさんから、若干26歳でミシュラン2つ星を獲得したトム・エイキンズさんに移っていた。いわゆる喚き散らすタイプのヘッドシェフがロンドンのレストラン厨房を支配していた時代の生き証人でもある。
しばらく高級レストランから遠ざかっていたトムさんが、新たな挑戦として2020年に返り咲いた唯一無二の旗艦店が、このMuseだ。小さなコテージに足を踏み入れたとき、なぜシェフがこの静かな住宅街の一画にある全23席のこぢんまりとした空間をあえて選んだのかが、分かったような気がした。
それまで国内に複数展開していたカジュアル路線のチェーンを全て閉じ、中近東へとビジネスを広げる中、自分が納得できる料理を目の前のお客さんへお出しするという、シンプルなホスピタリティの原点を取り戻したかったのではないか。入念にデザインされたオープン・キッチンはコンパクトだが、厨房を縁取る大理石のなめらかな輝きが、落ち着きのあるエレガンスを添えている。長いキャリアの中でたっぷりと自己に充足し、今はただ、自分の料理を提供するだけだとでも言うように。
Museではシェフ本人の育った環境や人など、自伝的な要素を取り入れたテイスティング・メニューを創り出している。料理の背景ストーリーや、食材がどこから来たかなどを説明する、目に見える仕掛けとともにいただく、心踊る演出もある。このタイプの高級レストランには珍しいアットホームな温かい雰囲気も魅力なのだ。
トム・エイキンズのシグニチャーに、季節によって姿を変えるランゴスティンの一皿がある。この日のランゴスティンは歯ざわり良くポーチされ、リンゴの素晴らしくフルーティーな香りに包まれていた。その身体をエレガントに覆っているのは、貴婦人のショールのごとき半透明のラード。陸と海が大胆に出会う一皿だ。これは危険を顧みず家の庭にあった大きなブナの木に、何度も駆け登っては世界を夢見たトム少年のストーリーが昇華されたもので、「シェフの飽くなき挑戦」を意味していると言う。
メインのデザートに登場するのは、トリュフとチョコレートの架け橋。1990年代にジョエル・ロブションの厨房にいたトムさんの思い出に結び付けられる一品だそうだ。熱烈なトリュフ好きでデザートにまでトリュフを使ったロブションさんをしのび、スイーツとセイボリーを融合させる繊細な試みが実を結んだ。不思議な主張を続けるトリュフのチュイール、自然の甘さを堪能するセロリアックのアイスクリームが名脇役。
早春の野に咲く黄や白の花々の上に、名残り雪をのせたようなプレデザート(冒頭写真)は、ポップでカラフルな様子に単純に気持ちが上がってしまった。ジグソーパズルを模した遊び心あふれるヨーグルトのパルフェ。レモンとバニラ、レモングラスなどを主食材とした爽やか仕立てで、ヨーグルトとフェンネルのキャビアが春を告げている。
Museは創業から1年足らずでミシュラン一つ星を獲得した。だが、恐るべき子どもと呼ばれたトム・エイキンズも、自身の過去を見晴らすことができるまでに大人になり、星の数とは関係のない自由な場所で、自分の料理を探求し続けている。その軌跡を見届ける役割を、周辺エリアの幸福な住民だけに任せておくのは、いやはやもったいない。
Muse by Tom Aikens
https://www.musebytomaikens.co.uk
text・photo:江國まゆ Mayu Ekuni