トップシェフが惹かれる一流の生産者たち。35歳退路を断って飛び込んだ塩の世界


「日本一」であり続けるもの作り
成功の秘訣は、どこまで擬人化できるか
田野屋塩二郎さん

塩二郎さんのオリジナリティのルール
●もの(塩)を擬人化して娘のように育てる
● 師匠が学ぶに足りない人と思ったらすぐに辞める
● ものの声を聞くために、人とつるまず俗世を捨てた感覚で生きる

田野屋塩二郎さんが、高知県東部にある田野海岸の海水で作る完全天日塩は、きめ細かなものから、4 、5ミリの粗塩、さらには5センチもの大粒塩までいろいろある。いずれにしろ1時間から1時間半ごとの撹拌を繰り返して作られる塩のおいしさは「日本一」と評されるが、塩二郎さんの作る塩の特徴は、こんなものではない。3棟ある製塩ハウス内にずらりと並ぶ木箱のかん水(海水を8パーセントの濃度に高めたもの)の中には、およそ塩とは結びつかないものが浮いているのだ。アーモンド、ワラ、カニの甲羅、レモングラスなど……。多種多様な注文に応じて、変わり種の塩も作っているのだと言う。たとえば、ワラの風味をつけた塩は、デザートのアイスクリームに使う予定のもの。「このワラを食べて育った牛のミルクで作ったアイスクリームに添える塩だから、このワラでなければ合わない」そうだ。人工的に砂糖を加えたものは仕上がりがベタつくので塩の材料には向かないが、野菜や果物など、基本的にはどんなものも塩にブレンドできる。なかには、「初マラソンで着たユニフォームの汗を含む塩を作ってほしい」とのユニークな注文も入る。こんなオーダーも「洒落がきいていて面白い」と言う。独立から10年、手掛けてきた塩は2000種を超えた。

敷地内には塩二郎さん専用の製塩ハウスが3棟。ハウス内の木箱にはさまざまな状態のかん水が並ぶ。ここでていねいに撹拌を続け、約3カ月後に完成する。

独立から10年、手掛けた塩は2000種以上
野菜や果物からナッツ、魚介や洋服まで、あらゆるものが素材になる

オリジナリティに富んだ塩二郎さんの塩。だが、その生き方も真似ができない。高校時代はラガーマンとして活躍。マリンスポーツも好きで、サーフショップのオーナーとしても成功した。だが、いつしか「もっと深く海に関わる漁師か塩職人になりたい」と思うようになった。大間のマグロの一本釣りに憧れたが、素人がいきなり飛び込むのは難しい。その頃、塩二郎さんは、高知県に「日本一」と呼ばれる塩作りの名人、吉田猛氏がいることを知る。東京から幾度も通って弟子入りを許されると、ここからが塩二郎流。家財道具から家まで、すべてを処分して高知へと向かったのだ。「退路を断つ」ために。35歳での転職に後はないと自分に言い聞かせた。師匠の家の近くに小さな部屋を借り、食事だけ面倒をみてもらい、2年間無給で働いた。いくらか貯金があった。けれど仕事が終わって夜になると「東京に戻ろうか」と弱気になったこともあった。そんな弱気を吹き飛ばすために、夜はトンネル掘りの仕事をして心身を苛め抜いたという。夜7時から翌2時まで、トンネル工事のアルバイト。1時間の仮眠をとって、夕方6時まで師匠のもとで修業。そんな生活が1年ほど続いた。自分を追い込みつつ、塩作りの基礎を徹底的に学んだと思ったので、独立した。「田野屋塩二郎」は、師匠が弟子に、はなむけとして贈った名前だ。

塩二郎さんの塩は「完全天日塩」。使用するのはミネラル豊富な田野町の海の海水で、海水を汲み上げるのは大潮か満月の日だけ。汲み上げた海水は加熱することなく、水分を蒸発させて濃縮させていく。

35歳、退路を断って飛び込んだ塩作りの世界
成功の秘訣は、余分なことを考える余裕がないほどに自分を追い詰めること

今もストイックな暮らしぶりに変わりはない。「塩作りには塩の声を聞くことが大切。そのためには人とつるむな。俗世間と離れて生きるほうが塩の声がよく聞ける」という師匠の教えを守っている。塩の声を聞くために製塩ハウスで眠ったこともある。「確かに夜になると塩はさまざまな声を発するんです。蒸発の音が寝息のようにも聞こえて……」こうして塩二郎さんは、多様なオーダーに応えて、オリジナリティ溢れる塩を作るようになった。独立から8年後に、師匠は他界した。その後、塩二郎さんの作る塩は、多くのトップシェフたちから「日本一」と言われるようになった。海外からの注文もあり、多くの食品メーカーとのコラボも盛んだ。

塩作りにおいて「変態」と呼ばれるのはむしろ誇りです
塩の声が聞きたくて、製塩ハウスに寝袋を持ち込んで寝たことも

塩二郎さんは塩を自分の娘にたとえる。「ちょっとわがままでナイーブな女の子だからかわいい。時々、嫁に出したくないなぁと思うことがある」と笑う。

塩二郎さんが今、力を入れているのが弟子の育成。一番弟子は育ち、そのほかに、来年、独立が決まっている弟子もいる。弟子にもよく言う。「もの作りを成功させる秘訣は、それをどこまで擬人化できるかだと思う。僕は塩を、自分の娘だと思っています」 塩作りにおいて「変態」と呼ばれることもある。「むしろ誇りです」と言うと、塩二郎さんは、慈しむようにやさしく塩をなでた。

Enjiro Tanoya
1973年、東京生まれ。本名は佐藤京二郎。高校時代は「ラグビー日本一」をめざし、花園に出場経験も。大学時代、サーフィンに夢中になり、やがてサーフショップのオーナーに。35歳の時に店を閉め、高知の塩名人・吉田猛氏に師事。2年後、「田野屋塩二郎」の名前で独立した。

上村久留美=取材、文 村川荘兵衛=撮影

本記事は雑誌料理王国2018年7月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2018年7月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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