1980年代からイタリアに渡り、製粉会社のイタリア駐在員として農業加工品の輸入品管理業に従事する大隈裕子が、トマトをキーワードにイタリア20州の料理や食材の歴史を皆さまと巡ります。
トマトはコロンブスの新大陸発見以降ポルトガル人やスペイン人探検家によって南米からヨーロッパに持ち帰られた数多くの種のひとつでした。ペルーやメキシコが主な原産地であると言われ、現地で使われていたナワトル語では「シトマトル」と呼ばれていたことから、多くの国で「トマト」と名前がつけられています。
ところがイタリアは今でもトマトのことを「ポモドーロ」という全く異なる名称で呼んでいるのです。
十数年前「イタリアトマトのすべて(2005 中央公論新社)」の執筆に際し、イタリア中の植物園や図書館、国立公文書館等で文献や図表探しをしていました。
トマトに関して見つけることが出来たのは、16世紀の草本書からでした。医師兼植物学者のアンドレア・マティオーリが1544年に出版した薬物誌です。
その中のマンドラゴラの項目の中に「フトモモをつぶしたような形で、中が分かれた異種が、我々の時代にイタリアにもたらされた。はじめは緑色で、熟すと黄金色になる。食べ方はナスと同じ塩と胡椒、油で調理し、同じように食す」と記述されていました。そして同著薬物誌1554年の図版入り改訂版からは、ナスの項目の中にPomi d’oroポミドーロの名称で記述されています。
マティオーリはイタリア語(当時のトスカーナ方言)でポミドーロと植物誌に記載しました。ポモ(Pomo)はラテン語源で「リンゴ、果実」を意味しますが、イタリアの方言では植物学状の「偽果(ぎか)」も指します。果実の色が黄金色だったことから、黄金を示す言葉オーロ(Oro)と合わせてポモドーロ(Pomo d’Oro)としたのです。
*ポモドーロ⇆ポミドーロ表記は、ポモ(Pomo 単数男性形容名詞)とポミ(Pomi 複数男性形容詞)の違いです。以後ポモドーロとします。
マティオーリは、フィレンツェ公のコシモ・ディ・メディチの侍医で1544年からピサ大学植物学教授および園長のルッカ・ギーニと交流がありました。新大陸から運ばれた新種の植物や種の栽培記録を書簡として送りあっていました。
フィレンツェ公コシモ・ディ・メディチは1539年にスペインのトレド出身ナポリ副王ビリャフランカ侯ペドロ・アルバレス・デ・トレドの長女レオノーラ・ディ・トレドと結婚しました。
時は新大陸発見後で冒険者や聖職者たちはスペイン宮廷へ珍しい植物や種を持ち帰っていました。トウモロコシの間にそだっていた唐辛子やトマトの種は一緒に到着し、植物園や庭園で栽培され始められました。それらの種がナポリ王国の副王から娘フィレンツェ公妃エレオノーラ・ディ・トレドに寄贈されたようです。その寄贈された日がいつかはわかりません。
フィレンツェ公文書館に保管されている1548年10月31日付けのメディチ家執事間の書簡によると、「フィレンツェの丘陵にあるトッレ・デル・ガッロの邸宅で栽培されていた籠の中に何が入っているかわからなかった種子から “ポミドーロ pomidoro” は、それらは卓越性をしめした」と記述しています。これがトマト名称入りの最初の記述書簡です。
公妃エレオノーラ・ディ・トレドに寄贈された種子から生まれたトマトの籠を、コシモ・ディ・メディチがピサの邸宅で受け取り、ピサの植物園では観察研究がさらに行われたことでしょう。
1500年代後半の植物学者の本草書では「庶民はトマトを調理して食している」と何度も記載されています。しかし、イタリア宮廷でのトマトの普及は非常に遅かったのです。すでに知られている農産物とは異なる新しい果物への最初の不信は簡単に解消されるものではなく、長い間その美食の可能性を損なったようです。
現代の植物学の研究から当時ヨーロッパに到着した最初のトマト品種類にはソラニンの含有が多く、考えられていた毒ではなく消化が出来なかったのではないかと仮説が立てられています。そのため観賞用または薬用植物として大学の植物園で研究目的のために使用が続けられ、品種の選択や交配によって数世紀かけて食用になっていったのです。
text:大隈裕子