名店にはさまざまな特徴があるが、「優秀な弟子を輩出している」もその一つ。この連載では「ある店」から卒業後に活躍しているシェフたち一人ずつに毎回インタビューする。初回から第4回までは、「コートドール」出身の4名のシェフが登場。2回目の今回は札幌で自店「クネル」を営む屋木宏司さんに話を聞いた。
〜コートドールについて〜
東京・三田にあるフランス料理店。1986年オープン、今年で36年目を迎える。オーナーシェフの斉須政雄氏が作るシンプルかつ温もりのある料理で知られ、また、氏の料理人としてのまっすぐな生き方は料理業界内外から広く、深く尊敬を集める。
——屋木さんはコートドールでは何年から働いていましたか?
1993年からです。14年間在籍しました。
——それは長い年月ですね! もともとは、どのような経緯でコートドールで働くようになったのでしょうか。
私は大阪の辻調理師専門学校出身で、卒業後はそのまま職員として辻調で働いていました。当時の先輩がある時、斉須シェフの著書『十皿の料理』を持っているのを見て気になり、手に入れて読んで非常に感動したのがはじまりです。今から30年ほど前のことですね。
学校では3年間だけ働き、その後は上京して料理人の修業をしようと考えていました。なので3年の期限が来る半年ほど前から東京で働ける店を探していたところ、辻調で私の担任兼先輩だった人が力を貸してくれることに。名店「アピシウス」(東京・有楽町)の髙橋徳男シェフに、私が就職できるかどうか直接聞いてくれたのです。
しかしその時、アピシウスは厨房に入りたいという希望者がすでに5人もいるとのこと。そうしたら髙橋シェフが「他に働きたいところがあれば問い合わせてあげるよ」と言ってくださったので、「コートドールに行きたいです」と伝えました。怖いもの知らずですよね(笑)。20代前半だからできたことです。
——コートドールへは、スムーズに入ることができたのですか?
面接では、ありがたいことにすぐにOKをいただきました。最初は厨房に空きがなかったので、サービスからのスタートです。
ところが、自分は人前に出るのが非常に苦手。3ヶ月ほど後、厨房に空きが出て運よく移れたときは心底ホッとしました。
——厨房に入って、とくに印象的だったことはありますか。
やはり厨房のきれいさ、掃除の完璧さにはびっくりしました。
また、入りたてのスタッフには、シェフはまずは洗い物もさせず「見ておいて」とおっしゃるんです。というのも、厨房にはいろいろなルールがあり、洗い物一つとっても食器や道具を傷つけないようごくていねいに扱うのが決まり。こうしたルールに沿って、先輩たちがムダなく整然と動いていることもまた印象的でした。
あと、働いていく中でとくに感動したのは、やはり斉須シェフのお人柄のすばらしさです。すべての事柄に平等に、ていねいに、大切に接するのです。
たとえば食材では高級食材だから偉いというようには考えず、日常的な素材からもよさを見つけ、引き出してあげる。厨房の道具も大切に扱う。人に対しても同じで、決して偉ぶらず、若い配達の人にもていねいに対応する。
あまりにシェフが威張らないから、あるお魚の配達の人などは斉須シェフのことをシェフと知らず「厨房のおじさん」と思っていたというんです(笑)。「気さくに接してくれるからわからなかった!」と。それくらい、シェフは皆に等しく誠実に接してくれるんです。
——屋木さんはコートドールで約14年間働き、そのうちの7年間はストーブ前で活躍しました。この担当になるまでは、どのようにしてステップアップしたのでしょう。
厨房に入ってすぐは、デザートをやりながら魚をさばくなどの下準備もする、一番下の仕事からのスタートでした。その後は、先輩が抜けたタイミングで前菜に。前菜には5〜6年いたと思います。
5〜6年というと長いと感じられるかもしれませんが、私にとってはゆとりがあったわけではまったくなく、毎日がとても濃く、緊張感のある日々でした。シェフはお客さまに対していつも全力で、「変なものは出せない」という厳しさがあります。でも時折、シェフの中で不合格の調理を私たちがしてしまう。
そうした時は真剣に叱られました。叱るときもシェフは全力だから、怖かったです。普段、何事に対しても誠実で嘘のないシェフが怒るのだから、余計に身に染みました。
——斉須シェフに叱られつつも、誠実なお人柄に触れながら修業を重ねていったのですね。
そうですね。ただ、斉須シェフにはおもしろい一面もあるんです! 冗談も言うし、仕込みの時などは歌を歌うこともありました。
コートドールでは仕込みの時間は、いつもラジオか、スタッフが持ってきたCDを自由にかけていました。私は一時期、長渕剛に入れ込んでいたことがあり、そのCDもよくかけてもらっていたんです。そうして何度も長渕が流れるうちにシェフもお気に入りの曲を見つけてくださった(笑)。たまにそれを歌ってくれて、嬉しかったですね。しかも、かなりお上手なんですよ!
斉須シェフは世間では孤高の人というように思われているかもしれませんが、そればかりではありません。おもしろい一面をスタッフに見せてくれて、そんな時は心がホッと和みました。
——屋木さんは2008年に札幌で独立開業なさいましたが、コートドールを辞める時は、どのようなやりとりをシェフとなさいましたか。
自分は、30代半ばくらいで自分の店を持ちたいと思っていました。シェフもまた、いつかは私が店を卒業し、独立することはわかっていてくださっていたと思います。
私は30代の前半から半ばにかけてストーブ前を務めていて、独立したい年齢と重なってはいたのですが、実はその頃のコートドールの厨房は、ある程度力をつけたらフランスに修業に行く後輩が続いていたんです。だから、自分が店を出るのは今じゃない。ストーブ前を引き継がせることができる人がいて、私が抜けても大丈夫な体制になってからだと決めていました。
実際に店を卒業したのは、以前コートドールからフランス修業に行った後輩が、帰国後に戻り、働くようになった時。私自身は38歳で店を出て、札幌にて独立開業しました。
——ご自身のお店「クネル」では、コートドールで学んだことがどのように生かされていますか。
自分は、レストランではコートドールでしか修業をしていません。コートドールですべてを教えてもらったんです。今、店ができているのも斉須シェフのおかげです。だからシェフから学んだことは、ある意味あらゆるところに生かされています。
ただ、この店はコートドールとは違うスタイルです。札幌は東京と比べるとフランス料理を食べ慣れた方は圧倒的に少ないので、この土地に合うよう、フランス料理を気軽に食べていただける店としています。
また、夫婦二人で営む店なので、料理もサービスもあまり手の込んだことはできません。それでも、斉須シェフに学んだように、料理に対する誠実さは守るようにしています。具体的には、食材を無駄にしない、飾るよりシンプルな構成にする、変なものはお客さまにお出ししない……そうしたことです。
——コートドールで働いた14年間は、屋木さんにとってはどのような日々でしたか。
シェフは「習慣は第二の天性」とよくおっしゃいます。たとえば私は料理の技術を覚えるのに大変苦労しましたが、毎日続けるうちにいつの間にか習慣のようになり、あたりまえにできるようになりました。コートドールで日常的に行われている徹底した掃除、非常にていねいな道具への扱い、素材への敬意も、気がついたら自分の習慣になっていました。
私は不器用な人間です。だから、コートドールでの学びが自分の中で習慣になるまでに14年間もの長い年月が必要だったのだと思います(笑)。器用だったらもっと早く覚えたかもしれませんね。
でも、今は自分の店を持ち、14年間続けることができています。これは、斉須シェフと一緒に過ごした年月の中で、私の料理人としてのベースが作られたおかげです。
コートドールに入った時は、自分が何をやっているのかさえわかリませんでした。そこから少しずつ学んで、一歩ずつ進んでいった。そして、山登りのように、シェフが作ってくださった道筋を、わずかずつでも前進してきました。
それが、私にとってのコートドールで過ごした日々。今ふり返ると、感謝で心がいっぱいになる日々なのです。
屋木宏司 やぎ こうじ
1970年生まれ、北海道出身。大阪の辻調理師専門学校卒の職員として3年間働いたのち上京し、「コートドール」に就職。以降1993〜2007年の14年間在籍し、うち7年間はストーブ前。2008年5月、札幌に「クネル」を独立開業。妻のミキさんと2人で店を切り盛りする。
フランス食堂 クネル
北海道札幌市中央区 南2条西8丁目
TEL 011-876-8778
17:00~21:30LO
月休
text:柴田 泉
神奈川県出身。食の専門出版社「柴田書店」にて、プロの料理人向けの専門誌『月刊専門料理』編集長を務める。独立後は食やレストランのジャンルを中心とするフリーライター・編集者として活動。